カスリーン台風被害70年 悲惨な水害、記憶後世に

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 茨城新聞に昭和の大水害「カスリーン台風」の記事が載っていました。
 
近くに住んでいながら、知りませんでした。怖いですね。
 
茨城新聞に載っていた記事内容です。
利根川の決壊などにより関東地方一帯に大洪水をもたらした1947年9月の「カスリーン台風」被害から、15日で70年を迎えた。栃木や群馬、埼玉各県の利根川沿いを中心に被害に見舞われ、坂東市(旧中川村)では同川堤防が決壊し、1人が行方不明となったほか、完工目前だった鵠戸(くぐいど)沼の干拓工事が大きな打撃を受けた。経験者が少なくなる中で、当時を知る人たちは、水害の悲惨さを今も忘れることなく、心に深く刻んでいる。
 
 ■ごう音、泥の臭い 当時、カスリーン台風が日本に接近したのに伴い停滞していた前線が活発化し、数日間雨が降り続いた。利根川は徐々に水量が増し、9月15日午後10時すぎには坂東市で約250メートル区間、翌16日午前零時すぎには埼玉県加須市で約350メートル区間で、それぞれ堤防が決壊した。
 
 坂東市の決壊箇所近くの高台に住む同市長谷、横島福子さん(83)は当時の様子をはっきり覚えている。決壊したのは、魚釣り用の小舟を自宅に運んで間もなくだったといい、「ゴォーゴォーと水が流れるごう音や、樋門(ひもん)の扉に水や木が当たるドゴーンドゴーンという音が今でも耳に残っている。泥の臭いもひどかった」と振り返る。
 
 決壊直前、付近の住民は堤防を駆け上がって難を逃れたが、少年1人が行方不明になった。土手の下にいた少女が少年を連れて走って逃げようとしたが、「ドスン」と大きな音がして振り返ると、後ろにいたはずの少年の姿がなくなっていたという。 住民の避難が深夜だったため、家財道具の一部を運び出した人もいたというが、多くは着の身着のまま逃げるのが精いっぱいだった。その後しばらくは、周りから一段高くなった土手の上などに避難して生活する人たちも多かった。
 
■完工目前台無し 決壊現場近くでは鵠戸沼を干拓し、約600ヘクタールを水田にする工事が進められていた。事業は、耕地を増やし生活を豊かにするのを狙いに、15年ごろから計画された。一部地主らの反対などで何度か中断しながらも、戦時体制の強化や戦後の農業生産力の増強を図るための政府の後押しが推進力となった。 当時の関係者は、悲願の干拓を成功させたいと必死に利根川の堤防を補強したが、台風の威力が勝った。市の歴史に詳しい同市岩井、山崎正巳さん(88)は「当時工事していた排水路部分の土砂が軟弱になり、その部分から決壊したようだ」という。
 
岩井市史などによると、旧村などの住民は9月24日付で内閣総理大臣宛てに、堤防決壊箇所の早急な復旧を求める嘆願書を提出している。「如何(いか)ニ復旧シ行クベキカ、全ク悲嘆ニ暮レテ居リマス」と、窮状を訴える内容だった。
 
 当時の状況について、鵠戸沼土地改良区前理事長の後藤安夫さん(81)は「干拓工事が台無しになり、大人たちはがっくりきていた」と話す。一方、干拓予定地に流入した土砂によって、沼に密生していたヨシがなくなり、肥沃(ひよく)な土地に変わった面もあったとされる。
 
 カスリーン台風による被害を契機に、利根川の治水対策は強化された。壊滅的なダメージを受けた干拓事業も復旧が進められ、1955年に完了した。現在、鵠戸沼だった一帯は広大な田園地帯となっている。 山崎さんは「70年の月日が流れ、市内にもカスリーン台風のことを知る人は少なくなった。史料を読むなどして知ってほしい」と、水害の歴史の風化を危惧した。
 
★カスリーン台風被害 利根川では支川を含む24カ所計5・9キロにわたって堤防が決壊し、関東地方1都5県で約23万ヘクタールが浸水した。家屋の浸水は30万戸を超え、死者は1100人に及んだ。県内も利根川のほか、那珂川や久慈川など多くの河川が氾濫し、死者58人、浸水や流失、倒壊した家屋は約1万8500戸に及んだ。
 
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2017年9月16日 | カテゴリー : 2017年09月 | 投稿者 : naturalcare